私が小学3年生の時、遠足で訪れて以来ずっと心に焼き付いている不思議な伝説があります。
「昔、この神社にある巨大な亀の石像が南を向いていた頃、夜な夜な猪苗代湖へ遊びに行ってしまって困った。だから、北(今の方向)を向かせたらようやく落ち着いたんだよ」
猪苗代町にある「土津(はにつ)神社」。私自身の名前にも、この神社に祀られている神様と同じ「正」の字が入っていることもあり、七五三や初詣など、人生の節目でいつも見守ってきてくれた特別な場所です。
今回は、そんな個人的にも思い入れの深い土津神社と、そこに眠る会津藩初代藩主「保科正之(ほしなまさゆき)公」にまつわる、壮大で少しスリリングな歴史の裏側をご案内します。
なぜ「仏式」ではなく「神」になったのか?江戸最大のタブー
保科正之公は、徳川家康の孫であり、三代将軍・家光の異母弟にあたる人物です。家光から「徳川家を頼む」と遺言されるほど厚い信頼を受け、四代将軍の補佐として江戸幕府の基礎を築き上げた、まさに「超エリートにして最高の実力者」でした。
そんな大人物が眠るのが、この土津神社です。境内には、高さ7.3mにも及ぶ日本最大の「亀趺碑(きふひ:亀の台座に乗った巨大な石碑)」が鎮座しています。
しかしここで、歴史好きならハッとする「ある謎」が浮かび上がります。
当時、江戸幕府は「お葬式やお墓は、必ず仏教形式(お寺)で行うこと」と厳しく定めていました。さらに、大名が死後に「神」として祀られることは、「東照大権現(神様)となった徳川家康と並び立とうとしている」と見なされ、絶対に許されない大タブーだったのです。
ではなぜ、正之公は幕府のルールを破り、見祢山のふもとに「神社」として祀られているのでしょうか?皆さんはどう思われますか?
忠義と暴走?家臣たちの熱きドラマ
実はここには、幕府の目を気にする二代藩主と、「偉大な初代藩主の意志を絶対に叶えたい!」と暴走(?)した国元の家臣たちとの、熱く激しいドラマがありました。
結果的に、葬儀の責任者であった家老が「自分が勝手にやりました」と罪を被る(脱藩する)というアクロバティックな方法で、この壮麗な神社は守り抜かれたのです。
現代にも通じる!名君・保科正之の「凄すぎる功績」
そこまでして家臣たちが慕った正之公とは、一体どれほど凄いリーダーだったのでしょうか。彼の行った政策を見ると、なんと「現代の福祉やインフラ」の先駆けとも言えるものばかりです。
- 世界初の年金制度?「養老扶持」:90歳以上の高齢者に、1日玄米5合を支給。
- 飢饉への備え「社倉制度」:平時に米を備蓄し、飢饉時に貧しい農民へ貸し付けるセーフティネット。
- 江戸のインフラ整備:江戸市民の飲み水となる「玉川上水」の開削。
- 無駄の削減:明暦の大火で江戸城が燃えた際、「天守閣はただ遠くを見るだけのもの。城の守りに必要ないから、そのお金を江戸の町の復興に回すべき」と主張し、天守の再建を取りやめました。
徹底して「民(庶民)」の暮らしを第一に考えた合理的な政治。もし正之公が現代の政治家だったら、絶大な支持を集めていたに違いありません。
日光東照宮と繋がるレイラインと、北を向く亀たち
土津神社の魅力は、歴史だけではありません。地理的に見ると、徳川家康が眠る「日光東照宮」とこの「土津神社」を地図上で結ぶと、一直線の美しい「レイライン」が引けると言われています。まさに会津を守る鬼門鎮守としての役割を担っているのです。
さらに、会津若松市にある歴代藩主の墓所(松平家院内御廟)を訪れると、もう一つの感動的な事実に気がつきます。
春には長野県高遠藩から移植された門外不出の「タカトオコヒガンザクラ」が可憐に咲き、秋には京都からやってきた「イロハモミジ」が真っ赤な絨毯を広げます。
歴史の「熱量」を肌で感じる旅へ
いかがでしたでしょうか。ただの古い神社ではなく、そこには幕府との緊張関係、民を思う名君の愛、そして家臣や子孫たちの途方もない忠誠心が詰まっています。
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