【会津・歴史探訪】冬至の朝だけ光が差す霊窟の謎。過酷な山頂に築かれた祈りの地「北山薬師」

私が北塩原村で仕事をするようになった頃、地元の方に「すごい場所があるから」と連れられて行った場所があります。登り始めと終わりにある急な階段、そして木々に囲まれた細い山道を登りきった先に、ひっそりと建つお堂が現れました。


私が北塩原村で仕事をするようになった頃、地元の方に「すごい場所があるから」と連れられて行った場所があります。

登り始めと終わりにある急な階段、そして木々に囲まれた細い山道を登りきった先に、ひっそりと建つお堂が現れました。 息を切らしながら見上げると、こんな山深くに建てられたとは到底思えないほど、屋根の下には見事な彫刻が施されていました。

皆さんは、なぜ昔の人々が、わざわざ資材を運ぶのも困難な「高い山の頂」に立派なお堂を建てたのだと思いますか? そこには、ただならぬ「祈りの切実さ」と、自然を恐れ敬う深い理由が隠されていました。

藩主の妻がすがった奇跡。「二つ児参り」の始まり

このお堂は「北山漆薬師(きたやまうるしやくし)」と呼ばれ、前々回の記事でご紹介した「会津五薬師」の北方を守る重要な仏様です。

江戸時代の初め頃、会津藩主・蒲生秀行の長男(亀千代丸)は生まれつき大変病弱でした。 現代のような小児科も薬もない時代、幼い命が育つかどうかは常に死と隣り合わせです。もし皆さんが当時の親だったら、藁にもすがる思いで神仏に祈るのではないでしょうか。

母の祈りが生んだ、400年続く風習

藩主の妻である振姫(ふりひめ)は、我が子を救うため、険しい山道を登りこの北山薬師にこもりました。そして1日3回の護摩行を7日間も続け、ひたすらに平癒を祈願したのです。すると、奇跡的に亀千代丸は元気を取り戻しました。
この時、亀千代丸が「2歳」だったことから、会津では子供が2歳になるとこの山に登り、境内にある大石(腹打石)に子供の腹を当てて健康を祈る「二つ児参り」という風習が生まれ、400年経った今でも大切に受け継がれています。

【古代のミステリー】冬至にだけ光が差す「奥の院」

さらにこの山には、歴史のロマンを掻き立てる不思議なスポットがいくつも存在します。

例えば、参道の途中にある「おんば様」と呼ばれる石像。
なぜか顔の目や鼻のあたりが削り取られており、かつてここで厳しい修行を行った修験者(山伏)たちの「結界」の目印だったと言われています。

そして極めつけは、本堂の裏手にある一坪ほどの小さな霊窟(奥の院)です。

現地に立つと、言葉では説明できない圧倒的なエネルギー(パワースポットとしての力)を感じずにはいられません。

湖底に沈んだ村。裏磐梯の過酷で美しい自然と共に

北塩原村の歴史は、常に「磐梯山の噴火」という自然の猛威と共にありました。

北山薬師の信仰が厚かったのも、いつ爆発するかわからない自然への畏怖があったからです。明治21年(1888年)の大噴火では、ふもとの桧原宿という村が丸ごと水没してしまいました。

現在でも、冬の渇水期(水位が下がる時期)にだけ、かつての村の総鎮守であった「山神社」の鳥居が湖底から姿を現し、当時の記憶を静かに伝えています。

「旅の糸」では、こうした裏磐梯のダイナミックな自然の歴史と、そこに生きた人々の祈りの痕跡を辿る【教養(Academic)スタイル】のツアーをご用意しております。

地元の中学生たちが「村の宝」として学んでいるこの深い歴史。ガイドブックの表面的な情報だけではたどり着けない、知的好奇心を満たす「裏磐梯の真実」を、ぜひ私たちと一緒に体感しに行きませんか?


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