いつも『旅の糸』のSNSや動画をご覧いただきありがとうございます! 先日アップした動画の中で「参勤交代」について少し触れたところ、思いのほか反響をいただきました。
時代劇でおなじみの「下にィ〜、下に!」という掛け声と共に、お殿様が優雅にカゴに乗って進む大名行列。皆さんも一度はテレビなどで見たことがありますよね? しかし、実際の参勤交代は、あんなにのんびりしたものではありませんでした。それは「1日で数億円が吹っ飛び、毎日フルマラソン並みの距離を歩き続ける」という、現代のブラック企業も真っ青の過酷な制度だったのです。
今回は、教科書には載っていない「大名行列のリアル」と、それが会津の歴史(大内宿)にどう繋がっているのかをご案内します。
【リアル①】1回の移動で「数億円」が消える!?
1635年、徳川三代将軍・家光によって制度化された参勤交代。その最大の目的は、「各大名に莫大なお金を使わせ、軍事力(反乱を起こす力)を削ぐこと」でした。
加賀藩の超絶・経費事情
例えば「加賀百万石」で有名な前田家の場合、多い時にはなんと約4,000人ものお供を連れて江戸へ向かいました。武士だけでなく、お殿様専属の医師、茶の湯の家元、鷹匠、さらには「専用の風呂釜」を運ぶ人まで同行していたのです。
これだけの大所帯ですから、1日の宿代や食費だけでおよそ3,000万円。加賀から江戸まで約2週間かかるとして、片道だけで総額4億2,000万円もの経費がかかりました。
現代の企業なら一発で倒産しそうな出費ですが、徳川幕府からすれば「大名たちをお金欠乏症にする」という作戦は大成功だったわけです。
【リアル②】優雅な行進は嘘? 1日40kmの「超・強行軍」
これだけお金がかかるのですから、大名たちも必死です。「1日でも早く着いて、少しでも宿代を浮かせたい!」と考えました。
そのため、山の中や街道では、あの優雅な行進(行列を建てる)は一切行わず、毎日約40キロ(フルマラソンとほぼ同じ距離!)を猛スピードで歩き続けました。朝5時に出発し、重い荷物を背負って夕方5時まで歩き続けるのですから、まさに強行軍です。
庶民のエンタメ「大名ウォッチング」
ちなみに「下にィ〜」という掛け声(土下座の強要)が許されていたのは徳川御三家など一部だけで、普通の大名が通る時は、庶民は道の端に避けるだけでOKでした。
江戸っ子たちは、日本橋の本屋で『武鑑(ぶかん)』という大名ガイドブックを買い、「あ、あの槍の形は〇〇藩だね。田舎モンだ!」と、ちょっとしたイベント感覚で見物していたそうです。
オランダ人も度肝を抜かれた「東洋のパレード」
この参勤交代の様子を、長崎出島から江戸へ向かっていたオランダ商館の医師・ケンペルが目撃し、記録に残しています。
彼が紀州藩の行列とすれ違った時のこと。朝、前方から大きな集団がやってきたと思ったら「先発隊」。次にまた大集団が来たと思ったら「ただの荷物運び隊」。そして昼頃にようやく豪華絢爛な「本隊(お殿様)」が通り過ぎ、最後尾が遠ざかったのは、なんと夕方でした。
「東洋の小さな島国に、こんなに巨大で統制されたパレードがあるのか!」と、ヨーロッパの外国人は度肝を抜かれたそうです。
参勤交代が遺した奇跡の宿場町「大内宿」
さて、この過酷な参勤交代ですが、実は日本のインフラや文化を劇的に発展させるという「副産物」を生み出しました。
大名たちが安全に、かつ期日通りに江戸へ着けるよう、全国の街道や橋が整備され、沿道の「宿場町」は大きな経済効果で潤ったのです。
我が会津藩の初代藩主・保科正之公も、会津と日光を結ぶ「会津西街道」を整備し、そこを通って参勤交代を行いました。その時に整備された宿場町の一つが、現在も美しい茅葺き屋根が立ち並ぶ「大内宿(おおうちじゅく)」です。
「旅の糸」では、こうした大内宿の成り立ちや、参勤交代の過酷なリアルを、移動中の車内でお話しする【教養(Academic)スタイル】のツアーをご用意しております。
「あのお殿様たちも、この道を必死で歩いたんだな」
そんな歴史の息遣いを感じながら、名物のネギ蕎麦を味わってみませんか?時代劇を見る目が、ちょっとだけ変わるかもしれません。